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12月17日、前回公判の裁判所による和解提案に、原告(都革新鍛冶淳子)側が応じたことで、小法廷で双方の意思の確認がなされました。実方さんは、「これまでも十分すぎるカンパをしてきたので、これ以上支払う気はない」ときっぱり和解を拒否しました。和解を目的とする簡易裁判所では和解を拒否した原告側が、実方さんの性格から裁判が長引くことを嫌らって和解できると考えたのでしょう。例え7万円以下でも和解できれば、未払い賃金を認めたものとして、「洗濯屋じつかた」への地域の評判を落とせると考えたのです。実方さんは、店とそこで働く従業員の暮らしを守るためにも毅然と闘う決意を固めています。
(資料 12月17日提出の実方さんの陳述書)

次回公判は1月29日14時 東京地裁610号法廷
被告實方精一と原告鍛冶淳子氏の証人尋問が行われます。傍聴激励ください。
陳 述 書
1.私、実方精一は、1948年、千葉県夷隅郡大原町(現在千葉県夷隅市大原)に生まれ、中学卒業後、渋谷区のクリーニング店に勤務し、1970年、豊島区南長崎にクリーニング店を開業しました。その後、1980年から杉並区荻窪2-23-15の現在地に店舗を購入し、クリーニング店を開業し28年を越えました。営業時間は午前8時から午後8時、従業員はパートも入れて4~5名です。来店接客と注文集配業務があります。荻窪・宮前・南荻窪の住民を主な顧客として、地域住民との日常的つながりを重視して、荻窪1-2丁目商栄会に加わり、町内会・商店会活動には積極的に関わってきました。事業の維持拡大だけではなく、地域社会とのつながりや信頼できる人間関係作りが地域をささえる力だと考え、それを大事にしてきました。
2.このたびの裁判は、私がこれまで関わってきた都政を革新する会(以下「都革新」といいます)との関係を抜きにしては説明できないので、まず都革新との係わりを述べます。
私が都革新を知ったのは、1989年、都革新代表の長谷川英憲氏が、消費税反対を掲げて都議会議員選挙に立候補し、当選したことがはじまりです。当時消費税に反対する東京都中小企業連絡会の事務局員をしていた結柴誠一氏(現杉並区議会議員)が中心となり、都革新の運動員が商店街を精力的に回って、署名集めや宣伝活動を真剣に行っている姿に心を動かされ、彼らを応援するようになりました。長谷川氏も結柴氏も革命的共産主義者同盟(中核派)の活動家であったので、商店会の仲間の中には、「実方はなぜ中核派を支持するんだ」と、心配する人もいましたが、「中核派かどうか関係ない、商店会の役に立つやつは誰でも応援する」と答え、それが正直な気持ちでした。
そういったことから私は、都革新を中核派の団体とみる人がいることを気にせずに、自分の商店会や地域の人たちに、都革新への支持を呼びかけました。そのかいがあって、都革新に対する地域の支持がだんだんと広がり、これを母体に都革新の後援会を組織する母体ができました。
1991年4月には杉並区議会議員選挙が行われ、結柴氏が1987年の選挙に引き続き立候補し、新城節子氏が新たに立候補しました。1987年の選挙では結柴氏ともう一人の候補が2人とも落選しましたが、このときの選挙では地域に支持基盤が広がり、新城氏は28票差の次々点で惜しくも落選しましたが、結柴氏の当選を果たすことができました。
この選挙の準備過程で1月に、結柴氏の連れ合いがこども(2歳)を連れて駅頭で宣伝活動をしている最中に逮捕され拘留され、また告示2週間前には結柴氏が革マル派の襲撃を受けるなどして、地域の人たちは選挙に関わるのが恐いという雰囲気がありましたが、私はそんなことは許されないと思い、先頭に立って選挙運動に関わりました。
3.1991年4月、結柴氏が区議会議員選挙で当選した後、選挙の支持母体をきちんとした後援会として組織しようと提案し、後援会発足と同時に私が都革新後援会長に就任しました。当時は、景気もよく余裕もあったので、都革新に対し、月々10万円くらいのカンパができました。1993年の都議会議員選挙のときには、商店街の中で選挙事務所を無償で貸すよう口利きをするなどの支援に力を注ぎました。都革新関係者のクリーニングについては全て無償でやり、選挙のたびに派遣されてくる中核派の学生の選挙運動用ユニホームや候補の背広やワイシャツのクリーニングも無償でやっていました。
上高井戸にある都革新の事務所には頻繁に出入りし、田舎に帰るたびに、カツオなどの土産をもって、事務員にふるまったりして食事をし、事務所で活動している人たちと個人的にもつきあいました。
4.本件原告の鍛冶淳子氏との出会いは、1995年の選挙では当選した新城氏の2期目の選挙である1999年選挙の過程だと思います。鍛治氏は1999年の選挙では新城候補の運動員として、高円寺地域を担当して支持者宅を回り、また都革新の会議にも出るようになって知り合うようになりました。当時店に入れたパソコンは、義理の息子であった店長は使えても、私はできないので、イロハを鍛冶氏に教わったことがあります。ローマ字が苦手な私はなかなか理解できずにすぐあきらめました。
以前は、店の宣伝チラシは知り合いの印刷屋に頼み、かなり安くしてもらっていました。また配布を地元の業者に頼めば、版下代は無料、印刷代もかなり安いものでした。当時は、都革新事務所の財政が厳しいことを結柴や新城、秋保氏らから聞いており、どうせ業者に払うなら少しでも事務所に役立つようにと考え、あえて割高な都革新事務所の印刷機を使い印刷するようになりました。事務所の印刷機を使って自分で印刷をやることもありましたが、事務所にいる人に版下作りをパソコンでやってもらったり、印刷を手伝ってもらうことも多かったのです。事務所の人たちも、上記のように私が、都革新の活動を熱心に行う中で、あるいは、ちょくちょく事務所に出入りする中で、心安くしていたことや事務所の印刷機を使用するいきさつなども知っていましたから、特に、版下作りや印刷作業を手伝ってもらうことでお金を払ったりということはありませんでした。鍛冶氏にも版下作りや印刷の手伝いをしてもらっていました。
5.次に、鍛治氏に月2万円のカンパをするようになったいきさつを述べます。私は、都革新の中で、区議会には3人か4人立てるべきだと主張してきたのですが、2003年区議会選挙には、結柴、新城氏のほかに、私の意見が通り、北島邦彦氏が立候補し、3議席をめざして挑戦することになりました。しかし、新人の北島氏が惜しくも次々点で落選してしまいました。
都革新の事務所財政は、結柴・新城2人の区議の議員報酬以外は収入がなく、また事務所の土地建物の借り入れ返済が月60万円以上あったために、厳しいことは聞いていました。3人当選のあかつきには、その抜本的立てなおしが可能と期待していたところです。ところが、北島氏が落選し選挙後に事務所の財政はいっそう厳しくなりました。
当時、結柴氏から私に相談があり、「事務員の活動費の削減をしなければならず、鍛冶氏の月12万円から10万円に削減せざるをえない。ついては実方さんが可能なら、月に2万円ずつカンパしてもらえないか」といわれました。鍛冶氏は、都革新の事務に専従しており、月の活動費が少ないことは知っておりましたから、時々、カンパとしてお金を渡しておりましたが、結柴氏からは話があり、それからはなるべくカンパを渡すこととしました。結柴氏からは、月2万円といわれたので、それを目途に考えてはいましたが、私も、店の売上が月々で違うので、毎月、日にちを決めて2万円づつ渡すことはできず、カンパしない月もあれば、売り上げがよくて月2万円以上カンパするときもありました。平均すれば月2万円ほどであったと思います。
このお金はあくまでカンパであり、鍛冶氏から作業を手伝ってもらったことに対する代金などではありません。鍛冶氏に、作業をやってもらうことで毎月2万円を支払うという約束をしたことはありません。
6.私が、都革新を離れたのは、中核派内部でもめごとが起き、中核派が結柴、新城氏の議員辞職を求めたことがきっかけです。2006年9月末、結柴、新城両氏が、後援会長であった私に相談にきたのですが、その年3月に中核派内で路線対立が表面化したことで、結柴氏が繰り返し批判され、6月に中核派で、結柴氏を次期選挙に立候補させないことを決めたということを始めて聞きました。それに反対した新城氏に対しても、次期選挙に出さないことが決められたのです。
次期区議選方針を、党の決定に従った北島氏一人だけの立候補に転換し、結柴・新城両氏対し、任期途中での議員辞職が迫られていることを聞き大変驚きました。
私は、これまで2人を支えてきた支持者・後援会に何の相談もなく、議員辞職を中核派が勝手に決めたことに怒りを覚えました。私たち後援会は、決して中核派の思想や行動を全て支持してきたわけではありません。それにもかかわらず、後援会や支持者を無視して勝手に議員をやめさせるなどということは絶対に認められないと考えました。
さっそく、後援会幹事にこれを知らせ、12名の連名で、結柴・新城議員の任期途中の辞職撤回要求書を都革新長谷川英憲代表宛てに提出しました。
この申し入れを、「結柴が実方をつかってやらせた」と言って無視したため、11月はじめに都革新後援会長の辞職届けを出しました。
その上で、12月に、これまで後援会を支えてきた地域の代表に呼びかけ集まってもらい、今後のあり方を相談しました。その場には、これまで都革新を支えて来た地域の代表のほとんどが50数名集まり、その場で結柴・新城後援会を立ち上げました。
さらに次期区議選をどうするか相談し、2007年1月の新年会で決定しようと言うことになりました。年明けの2007年1月22日、私が呼びかけた新年会には、これまでの都革新と都革新後援会共催の集まりよりも住民が多数参加しました。集まった人々から、「党派の代表ではなく、自分たち区民の代表になって欲しい」と言う意見が多く、「後援会で新たに二人を区議会に送り出そう」ということになりました。翌日からポスター作りなど独自の準備をはじめました。都革新の幹事が、地域の代表に呼びかけ、区民選対会議を組織し、結柴・新城の再選目指し、準備活動を開始したのです。
7.2人が都革新を脱退したことで、それまで2人の議員報酬で成り立っていた都革新事務所の運営財政は途端にきびしくなり、鍛冶らの事務局員に支給されていた活動費は滞るようになったと考えられます。鍛冶からの「賃金未払い分の請求書」が来たとき、賃金など支払っていた覚えはなく、これは何だろうと驚きました。
しかし、鍛治氏の実情もよくわかりましたし、元々、中核派内部の対立で私は、都革新を離れましたが、鍛冶氏に恨みなどがあるわけではなく、鍛冶氏が金銭を要求してくるので、これまで通り、帰省や年越しの助けになるかと思い、2006年12月に2万円、2007年1月に、5千円を2回、以前と同じカンパのつもりで渡しました。
8.2007年4月区議選では、結柴氏当選、新城氏は54票差の次点で惜敗しました。この過程で中核派は、「結柴・新城は、山田区長の与党になった」「自民党から出る」「新城は沖縄に帰って何も活動していない」などの中傷を行いました。中核派が動員した運動員が新城支持者に新城の悪宣伝をしたことで、新城支持者の中から、内部対立に嫌気がさして他の女性候補に支持を変えたものが少なからず出たことは間違いありません。二人の支持者名簿が全部中核派の事務所においてきたことから、厳しい結果を強いられました。
9.2007年8月に鍛冶氏から、私の店に来て、残額があるからとして、支払を求めてきました。私はもう支払う必要もないと思いましたが、店先でそういう話をされるのも迷惑なので、その後は出せないと断り、2万円を渡して帰ってもらいました。
それでもまた、11月に、12万円の請求書を鍛冶氏が持ってきました。このときには、断って帰ってもらいました。
このときに、「なぜ、しつこく来るのか」と鍛治氏に聞くと、「実ちゃんが心臓肥大だから、死んだらもらいっぱぐれるから」と答えたことにはびっくりしました。私が、心臓のバイパス手術をしていることは、周知の事実ですが、「心臓肥大」と言う診断は、区内で、我々、都革新の中心メンバーらが中心になって設立に奔走した○○診療所で、その当時、受けた診断結果であり、誰にも言っていないことでした。診療所の秋保事務長が、中核派の関係者であり、彼が私の個人情報を流したものと思われます。
10.2008年1月には、鍛冶氏が店にやって来て、お客さんがいる前で、「未払い賃金をよこせ」と声を上げ、帰らないという事態が起こりました。この時点で、初めて私は、鍛冶氏の請求の狙いは、私の営業を妨害することにあると思い、怒りがわいてきました。鍛冶氏を店の裏につれてゆき「商売のいやがらせをするなと」、初めて強く抗議をしました。
その後も、1月末、革命的共産主義者同盟(中核派)西部地区委員会の幹部である、高山氏、内田氏らが、店先に来て「印刷代を払え」と言って大声をあげるということがおこりました。近隣が心配して出てきて、「あれは営業妨害だね」と言われるほどのできごとでした。
11.2月4日、差出人鍛冶淳子名で、催告書が内容証明郵便で届き、「支払わなければ、法律的手段に訴える」などと書かれていたが、放っておきました。その後、4月25日付で、少額訴訟に訴えてきたので驚きました。これが本件の始まりです。
今回の裁判が、中核派内部の対立から派生した都革新からの我々の脱退に対する嫌がらせを意図したものであるものと思います。
私が都革新に関わる中で、地域に支持を広げ、その中で、カンパも含めて、経済的支援もしてきたことはこれまで述べたとおりです。
それが、自分たちの意に沿わなくなると、手の平を返したように、いやがらせをしてきたのが今回の裁判に至る経過です。
鍛冶氏を含めた都革新あるいは中核派に対しては、十分すぎる支援をしてきたはずの私が、改めて7万円を支払う理由はないことは明らかだと思います。
2008年12月17日
實方精一 |